博多祇園山笠

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博多祇園山笠
博多祇園山笠

博多祇園山笠(はかたぎおんやまかさ)とは福岡県福岡市で毎年7月に開催される700年以上の伝統のあるである。

概要

福岡市博多区のおもに博多部那珂川御笠川(石堂川)間の区域)で7月に行われる祭で、博多区の櫛田神社にまつられる素戔嗚尊に対して奉納される祇園祭のひとつ。神社の祭りは正式には「櫛田神社祇園例大祭」と呼ばれ、それに応じて氏子の町内が始めた付け祭りが発展する過程で山笠と呼ばれる山車が登場する様になったため神社の祭りも含めて「博多祇園山笠」と呼ばれるようになった。参加者や福岡市民などからは「山笠」「ヤマ」とも略称される。国の重要無形民俗文化財に指定されている。

博多どんたくとともに、博多を代表する祭りの1つとして知られる。山笠の掛け声は1996年平成8年)に日本の音風景100選の1つに選ばれた。

なお地域外の者からは福岡市が主催している祭りと誤解されがちだが山笠は櫛田神社の氏子たちが行う奉納行事のひとつであり、地域の住人たちが伝統的に行ってきた町内行事である。

山笠を担いで市内を回ることを山笠を「舁く」(かく)と言い、担ぐ人のことを「舁き手」(かきて)と言う。

歴史

博多祇園山笠の起源については諸説あるが鎌倉時代1241年仁治2年)に博多で疫病が流行した際、承天寺の開祖であり当時の住職である聖一国師(円爾)が町民に担がれた木製の施餓鬼棚に乗り水を撒きながら町を清めてまわり疫病退散を祈祷したことを発祥とするのが通説である。安土桃山時代島津氏豊臣氏の戦いにより博多の街は焼け野原となったが豊臣秀吉が帰国の際、博多の街をいくつかの区画毎に「」(ながれ)としてグループ化し復興を行った(太閤町割)。この「流」が博多祇園山笠のグループ単位の発祥である。戦後の一時期、13流に増えたこともあったが現在の「流」は恵比須流大黒流土居流東流西流中洲流千代流の7流である(福神流は過去の不祥事が原因で不参加)。

かつては京都の祇園祭のように町ごとに飾り山の華美を競いながら練り歩いていたが江戸時代の1687年貞享4年)に土居流が東長寺で休憩中、石堂流(現在の恵比須流)に追い越される「事件」が起こる。このとき2つの流が抜きつ抜かれつのマッチレースを繰り広げ町人に受けたことから、担いで駆け回るスピードを競い合う「追い山」が始まった。以来戦後の一時期を除き祭のクライマックスとしてこの「追い山」が執り行われ、福岡市内のみならず近隣各地から多くの観衆を集めている。

戦後に入り1955年昭和30年)に「博多祇園山笠振興会」が発足、当時より「博多部外」の新天町等でも飾り山行事が行われ1962年(昭和37年)より「博多部外」である福岡市中心部に舁入れる集団山見せなどが行われるようになった。1970年(昭和45年)から子供(小学生)が小型の山笠を舁く「子供山笠」も始まった。

山笠の変遷

一般の祭りの神輿山車に相当する、御霊を宿らせる(「御神入れ」という)もののことをこの祭りでは「山笠」や「ヤマ」と呼ぶ。

山笠発祥とされる鎌倉時代の山笠の姿は明確でないが、他の地区で見られる笹山笠と呼ばれるようなものと考えられている。

その後、経緯は不明であるが山笠は多くのを立て人形を飾った背の高いものに変化した。江戸時代初期に描かれた「博多祇園山笠巡行図屏風」には、このような幟山笠が描かれている。

また現在「飾り山」として見られるような岩山笠は三苫惣吉が1752年宝暦2年)に始めた様式といわれる。お堂や水の流れといった部品で風景を構成してそこに人形を配置したもので下絵や絵馬も多く残っており、その姿を伝えている。この頃の山笠は高さが10メートル以上あり、町のどこからでも望むことができた。

1898年明治31年)、福岡県知事が山笠行事の中止を提議した。理由に山笠が電線を切断する事故が相次いだことが含まれていたため、それまでの高い山笠は飾っておくだけの「飾り山」とし、運行には3メートル程の「舁き山」を用いることとなった。なお電線の設置に際して、山笠の運行は事前に配慮されていたが、実際には不十分であった。1910年(明治43年)、市内に路面電車が開通して軌道上空に架線が張られると、架線より高い山笠の運行が不可能になり、「飾り山」と「舁き山」の分化は決定的なものとなった。その後、1979年(昭和54年)に市内の路面電車が全廃されると、舁き山の高さは徐々に緩和されるようになり、現在は4.5メートルまでとなっている。

終戦までは流ごとに、飾り山の台座部分である山笠台に舁き山の飾りを乗せることで、飾り山と舁き山を同一の山笠と見なしていたが、戦後は明確に分離されるようになり、多額の費用がかかる飾り山は商店街や企業の協賛で建てられるようになった。1964年(昭和39年)、川端通商店街(上川端通)は山笠の分化前の姿を彷彿とさせる「走る飾り山」を復活させ、現在でも櫛田入りを奉納し続けている。ただし他の流の山笠が再び以前の形に戻すような計画はされていない。

「走る飾り山」は電線や信号機・標識などに接触しないよう伸縮式になっている。またこの飾り山は煙が出るようになっているが、これは1991年平成3年)にゴジラの人形から煙を吐き出させるようにした事が始まりである。

飾り山や山笠の人形の衣装の生地は長年、京都の西陣織を使用していたが近年になり地元の博多織を人形の衣装の生地に使うようになった。

舁き手

博多祇園山笠は女人禁制の祭りであり、旧来の流に於いては子供山笠も含めて舁き手は男性のみである。また女性は舁き手の詰め所に入れないしきたりとなっている。かつては舁き手の詰め所の入口に「不浄の者立入るべからず」と書かれた立て札が立てられる風習になっていた。この「不浄の者」は喪中の人と女性のことを指しているが、女性差別につながるとして2003年(平成15年)に立て札の設置は中止された。