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*[[オールドスクール]]
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*[[コールド・チリン]]
*[[ハードコア・ヒップホップ]]
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2020年1月9日 (木) 00:49時点における最新版

ヒップホップ音楽の歴史(ヒップホップおんがくのれきし)、またはラップの歴史1970年代前半に始まり、今日まで続いている。ヒップホップの4要素(DJブレイクダンスグラフィティラップ)は、それぞれがグローバルなメディアの中に溶け込んでいった。その中で、もっとも早く、そしてもっとも多くの恩恵をアメリカのエンターテイメント産業から受けたのがラップ(とDJ)のヒップホップ音楽である。

ヒップホップのルーツ[編集]

ヒップホップ音楽のルーツの議論は、アフリカ文化のグリオや、ラスト・ポエッツギル・スコット=ヘロンといった、1960年代からの詩を朗読するミュージシャン、街中でよく聞かれたダズンズなどの言葉遊び、あるいはジャマイカダンスホールレゲエの影響について言及される。それらを端的に表現すれば、ヒップホップのルーツは西アフリカの文化とアフリカ系アメリカ音楽にあると言える。初期のラッパーの多くは、1970年代初期から中期に、全く独自に始まったものと主張している。レゲエには見られないスクラッチの手法は1977年、グランドウィザード・セオドア(Grandwizard Theodore)によって発明され、グランドマスター・フラッシュの「Adventures on the Wheels of Steel」で出現した。ラップは言葉遊びに似ていたため、ヒップホップ文化の中でさえも一時的な流行と見なされていた。当初のラップは基本的にはDJのプレイの盛り立て役で、曲と曲の変わり目や、機材がトラブルで故障した時に盛り上げるためのものだった。

オールドスクール時代(1970年代初め–1986年)[編集]

オールドスクール・ヒップホップは、1970年代前半のニューヨークで、クール・ハークなどのブレイクビートをプレイするDJの出現とともに始まった。オールドスクールは、ディスコ、ソウル、ファンクの音源をしばしばサンプリングし、例えばシュガーヒル・ギャングの場合もサンプリングを用いたが、しかし多くはドラムマシンとブレイクのみでトラックが作られた。ラップの内容はほとんどがパーティ、地元、友情が中心だったが、グランドマスター・フラッシュ&ザ・フュリアス・ファイブの「The Message」は例外で、その「メッセージ」性は後のラップに大きく影響した。

商業化[編集]

最初に認知されるようになったヒップホップの楽曲は、ファットバック・バンドの「King Tim III (Personality Jock)」と、シュガーヒル・ギャングの「ラッパーズ・ディライト」である。どちらもヒップホップのDJ文化に根ざしてはいなかったが、「ラッパーズ・ディライト」はビルボードのトップ40に入った。その後続いてカーティス・ブロウ、シークエンス、グランドマスター・フラッシュ&ザ・フュリアス・ファイブらがリリースし、一時的にではあるがヒップホップ音楽は成功を収めた。1980年代には、カーティス・ブロウは清涼飲料スプライトのCMにも出演する。ヒップホップが本格的に商業化するのは、80年代・90年代になってからである。

ディスコの流行[編集]

ヒップホップはディスコに影響を受けて、あるいはそれに反発をして発展した。カーティス・ブロウによると、初期のヒップホップはディスコ音楽を好むか嫌うかで2分されていた。「ラッパーズ・ディライト」は、テレビの利己的な演出(衣装、踊り、映像効果など)で登場した、まさにディスコに影響を受けた曲の一例だ。

1970年代前半、多くの黒人専門ラジオ局はディスコの選曲に切り替えたが、アフリカ系アメリカ人コミュニティの多くでディスコに対する揺り戻しがあった。アフリカ・バンバータによると、ブロンクスのヒップホップは、ラジオ局でプレイされるディスコに反対する運動そのものであったと言う。カーティス・ブロウによると、ディスコは中産階級のもので、ヒップホップはゲットーのものという意識の上での、「ディスコ・ラッパー」対「B-Boy」の戦争だったと言う。1980年前半にワシントンD.C.で発生したゴーゴーや、シカゴにおけるハウスミュージックデトロイトにおけるミニマル・ファンク(後のテクノミュージック)も揺り戻しの一例である。

ゴールデンエイジ・ヒップホップ (1986–1993)[編集]

ゴールデンエイジ・ヒップホップはニューヨークシティがシーンの中心だった。ランD.M.C.の1986年のアルバム「レイジング・ヘル」の人気から始まり、1993年のGファンクの人気で終わる。この時期、デフ・ジャム・レコーディングスが最初のヒップホップのインディ・レーベルとして登場した。1988年には、DJジャジー&フレッシュ・プリンス(現在のウィル・スミス)がラップで初のグラミー賞を受賞した。

デフ・ジャム[編集]

ランD.M.C.が、ハードロックバンドのエアロスミスとコラボレーションした曲「Walk This Way」は、ロックとヒップホップの融合の一例である。この曲はMTVでヘビーローテーションとなり、ビルボードのトップ5になった最初のヒップホップの楽曲と考えられている。1984年、デフ・ジャムレコーディングスは、ランD.M.C.のジョセフ・シモンズの兄弟、ラッセル・シモンズによって創設された、最初の独立系ヒップホップ・レーベルであった。デフ・ジャムからデビューしたビースティ・ボーイズは、1987年のアルバム「Licensed to Ill」で、ブラックサバスレッドツェッペリンの曲をサンプリングした。続く1989年のアルバム「Paul's Boutique」でもサンプリングが多用され、ユーモラスなパンチラインとセンテンスがラップされた。このことは、ヒップホップ界にブレイクビーツスクラッチという手法以上に、サンプリングの可能性を見せた。同レーベルからはLL・クール・Jも成功を収めた。

政治的/自覚的文脈[編集]

この時代のヒップホップには、黒人の誇り、団結、自覚を促す大きなサークルが見られ、黒人コミュニティに影響を与えた。1987年、パブリック・エネミーの「Yo! Bum Rush the Show」、続いて1988年、ブギー・ダウン・プロダクションズの「By All Means Necessary」がリリースさる。どちらも政治的なメッセージの強い作品だった。KRS-ワン(ブギー・ダウン・プロダクションズ)によって、ヒップホップとコミュニティにおいて暴力を終わらせようという運動も開始された。

ネイティヴ・タン・ポッセは、'80年代末から'90年代初頭にかけて、デ・ラ・ソウル、ジャングル・ブラザース、デ・ラ・ソウルを中心に、クイーン・ラティファ、モニー・ラヴ~ブラック・シープ、ビートナッツ、チ・アリといったアーティストへと引き継がれるゆるい集合体的な集団。アフリカ中心主義的な思想を背景としたリリックとジャズなど多様な音楽にも広がるサンプリング・センスが特徴的で、そのメッセージは、その他アフリカ中心主義的考えを標榜するアーティストとともに「コンシャス・ヒップホップ」の文脈の中で一つの流れを形成した(「コンシャス・ヒップホップ」のルーツはグランドマスター・フラッシュ&ザ・フュリアス・ファイブの「The Message」のリリックにも見られ、それは後のアフリカ・バンバータの汎アフリカ主義的なズールー・ネーションのメッセージへと受け継がれて、ここへと至っている)。

政治色の強いラップは当時のニューヨークにおいて大きな流れの一つではあったが、その一方でマーリー・マールのコールド・チリン・レコーズが輩出したジュース・クルー(ビッグ・ダディ・ケイン、クール・G・ラップ、ビズ・マーキーなど)に見られるようにそのアーティスト性については幅があった。

西海岸[編集]

東海岸が支配力を持っていたにせよ、西海岸は確実にヒップホップの主流になる要素を持っていた。トーン・ロック、ヤングMC、MCハマーといったラッパー達は「ポップなラップ」というジャンルを確立した。

とはいっても、この時期の西海岸も「楽しい」ラップの一面だけでは表せない。1986年、アイス・Tの「6n' Da Mornin'」は、西海岸出身の最初の全国的なヒップホップのヒットとなった。この曲は、しばしばギャングスタ・ラップの始まりといわれる。N.W.A.はアルバム「Straight Outta Compton」で一躍脚光を浴びたが、これはアメリカのゲットーで暮らすことの残酷さを歌ったものだった。アイス・キューブも「AmeriKKKa's Most Wanted」と「Death Certificate」の2枚のアルバムで、政治的な内容を歌った。2パックは様々な問題をリリックにして、1990年代のギャングスタ・ラップの先鞭を取った。

サンフランシスコ・ベイエリアでは、1980年代末からモブ・ミュージックと呼ばれるスタイルが流行した。トラックはファンクを基本に、シンセサイザーと超低音、Roland TR-808のドラム音で制作された。後の南カリフォルニアでのGファンクの源流とも言える。1980年代前半から活躍していたトゥー・ショートなど、多くのベイエリアのアーティストがこのスタイルに関わった。

サウスへの波及[編集]

この時期には南部にもヒップホップが飛び火する。ニューヨークやロサンゼルスほどの都会のマーケットがなかったため、メジャーレーベルはなかなか南部に食指を伸ばすことがなかった。多くのサザン・ヒップホップのアーティストたちは、自主レーベルから出すことを強いられ、地域への流通はミックステープが中心だった。

フロリダ州マイアミを拠点にした2ライブ・クルーは、ベース音の大きいトラックの上に、セックスに関するリリックを歌ったマイアミベースを進化させた。1989年の悪名高い「Nasty As They Wanna Be」はフロリダ州当局に発売禁止の処分を受け、さらにクルーは、わいせつなショーのため逮捕された(後に釈放されたが)。マイアミベースは、大部分のヒップホップファンのリスぺクトを得られる内容ではなかった。

ニューヨーク、ロサンゼルスの次にヒップホップで突出した都市は、テキサス州ヒューストンだった。ゲットー・ボーイズは1989年にローカルデビューした後、デフ・ジャムのプロデューサーのリック・ルービンに注目され、1990年に全国デビューを果たした。1991年には「Mind Playin' Tricks on Me」がヒット。この曲の成功で、ヒューストンはサザン・ヒップホップの中心地となった。1980年代後半にはUGK(テキサス州ポートアーサー出身)や8ボール&MJG(テネシー州メンフィス出身)らがヒューストンに移住し、ラッパーとしてのキャリアを始めた。彼らのリリックは、西海岸と同様にストリートのリアリティを表現したものだった。

この時期、テネシー州では、アレステッド・デヴェロップメントがアルバム「3 Years, 5 Months & 2 Days in the Life Of...」をリリースし、記録的なヒットとなる。マイアミのパーティーラップ、ヒューストンのギャングスタ・ラップとは全く離れたスピリチュアルな内容で商業的な成功を収めた。

現代(1993年–1998年)[編集]

ウェストコースト[編集]

1988年のN.W.A.のアルバム「Straight Outta Compton」は、1990年代から現在までの「ギャングスタ」というスタイルを一般に見せつけた。N.W.A.からソロデビューしたドクター・ドレーの、1992年のアルバム「The Chronic」は、その語のギャングスタ・ラップを主流に押し上げた金字塔的なアルバムである。「The Chronic」はGファンクと呼ばれ、1970年代のPファンク(パーラメントファンカデリック)のサンプリングと、比較的スローペースのライムで特徴付けられる。Gファンクの音はシンプルで踊りやすく、リリックは反権威的で、若いファンはすぐに飛びついた。西のヒップホップは無視できないほど大きくなり、シーンを凌駕した。プロデューサーとしてのドレーの能力が発揮されたレーベル、デス・ロウ・レコーズからは、スヌープ・ドギー・ドッグ1993年に「Doggystyle」をリリースしてヒット。伝説となったトゥパック・シャクールも1990年代中期に登場する。

チカーノラップと呼ばれるサブジャンルも登場した。キッド・フロストメロウ・マン・エースらはこの分野のパイオニアで、サイプレス・ヒルのヒットは注目を集めた。ギャングスタ・ラップ、Gファンクと平行して、彼らは英語とスペイン語でチカーノの現実をリリックにした。

ベイエリアのE-40、トゥー・ショートは、ピンプ(Pimp、売春婦のヒモ)と薬のディーラーというギミックを一貫して演じ、シーンの一定の支持と人気を築くことに貢献した。

イーストコースト[編集]

1990年代は、ニューヨークと東海岸の音は、リリックの内容とともに暗く激しいものになった。

1980年代後半のEPMDエリック・B&ラキムは、激しいドラムとリリックを信条とした。EPMDは1990年代初頭にニュージャージー出身のレッドマンを含むデフ・スクアッドを集め、さらに激しい傾向を強めていった。これは当時成功していたMCハマーに対する意識的な戦略であったと見られる。

ニューヨークシティやフィラデルフィア出身のラッパーが次々と生まれた。1993年にはウータン・クランの「Enter the Wu-Tang (36 Chambers)」、オニクスの「Bacdafucup」、1994年ナズの「Illmatic」とノトーリアス・B.I.G.(ビギー)の「Ready to Die」、1995年、モブ・ディープの「The Infamous」、レイクウォンの「Only Built 4 Cuban Linx」がリリースされると、東海岸のサウンドの激しい面が特徴付けられ、再びシーンの視線はニューヨークへと向いた。ナズにはラキムの影響、ビギーには策士パフ・ダディ(現在のディディ)が取り入れた西海岸のギャングスタラップの影響が見られた。

1994年を境にして、ラップ産業はグループよりもソロアーティストの作品へとシフトしていく。結果としてウータン・クランからは、レイクウォン、ゴーストフェイス・キラーオール・ダーティ・バスタードメソッド・マンGZAと、次々とスターが生まれた。彼らのリリックの内容は、銃、麻薬、セックス、金をテーマにする傾向が強まった。

東西の対立[編集]

ニューヨークのシーンがヒップホップの主流に独自性を見せて再浮上したことは、すぐに東海岸と西海岸、そしてそれぞれの主要なレーベル同士の避けられない対決を大量に生み出した。売り上げの対立関係は、最後には個人的な対立関係へと変わり、ヒップホップの歴史の中でも過去に例を見ない惨事へとつながっていく。

対立関係の概要[編集]

1995年秋のソース・アワードの授賞式に居合わせた西のデス・ロウレーベルのCEO、シュグ・ナイトは、東のバッド・ボーイのCEO、ショーン・ディディ・コムズが、自身のアーティストのビデオ内や曲中に登場し過ぎることを嘲る内容のコメントをした。その晩のショーでは、当時デス・ロウのアーティストであったドクター・ドレーとスヌープ・ドッグのショーにニューヨークのファンからブーイングが起こった。

ノトーリアス・B.I.G.は、「Who Shot Ya」を1995年後半にリリース。トゥパックはこの曲を、自身に対する銃撃未遂はバッド・ボーイが差し向けたものと解釈した。これに対してトゥパックは、翌1996年初め、悪名高いシングル「Hit 'Em Up」をリリースする。この曲は、彼がビギーの妻、フェイス・エヴァンスと性的関係を持ったことを示唆し、ビギーとパフ・ダディを脅迫する内容であった。このスキャンダラスな内容は、対立を別次元に持っていった。ビギーは決して直接に言及しなかったにもかかわらず、当時のメディアはラップの東西戦争と煽り立てた。

1996年3月にマイアミで行われたソウルトレイン・アワードの受賞式では、両レーベルの多数の取り巻きが、銃をぶら下げて対峙するという深刻な事態を招いた。その少し後のヴァイブ・アワードでは、トゥパックがナズに対して、次回作でディス(曲中の歌詞に相手を中傷した言葉を織り交ぜて攻撃する行為)している部分を取り除けばこちらもディスをしない、という交渉を持ちかけていたことが、多くの人に証言されている。

そして1996年9月7日、トゥパック・シャクールはラスベガスで数回撃たれ、数日後の9月13日の金曜日に死亡した。1997年3月9日には、ノトーリアス・B.I.G.がロサンゼルスで銃撃され殺された。これら両方の事件はまだ未解決で、多くの噂が広まった。中には、シャクールはまだ生きているという説まである。

事件の余波[編集]

トゥパックの死後、多くの目立ったアーティストはデス・ロウを去り、シュグ・ナイトは無関係の違反行為で刑務所に入り、西海岸はシーンの主流から落ちた。かつての西海岸の象徴だったスヌープ・ドッグは南部のレーベル(ノー・リミット)と契約した。ドクター・ドレーは自身のレーベル、アフターマスを創設し、東海岸出身のナズやファームといったアーティストとの仕事を始めた。ドレーはMTVのビデオアワードの受賞式で、「ギャングスタ・ラップは死んだ」と発言した。1997年、ネーション・オブ・イスラムの指導者、ルイス・ファラカーンのもとに数名のラッパーが訪れ、シャクールとビギーの死への許しを誓約した。

パフ・ダディの成功によって、ヒップホップのサウンドは、ストリートの賛歌から、もっと踊りやすいクラブに馴染んだパーティジャムへ移行すべきことを知らせた。これは他のラッパーにとって、結局は売り上げの増加を伴った。アトランタマスター・P率いるノー・リミットレーベルの躍進によって、バッド・ボーイの支配的な人気も多少は落ちた。しかし彼自身は、P・ディディと改名し、なおシーンの中心に存在し続けている。

サウスの時代(1998年–現在)[編集]

デス・ロウの崩壊後、Gファンクの人気は急激に衰えた。スキャンダラスな銃撃事件によって、ヒップホップ産業を取り巻く環境は変化した。西海岸のギャングスタ・ラップへの社会的な印象は非常に悪くなっていた。

1990年代後半、南部のヒップホップはノー・リミットやキャッシュマネーレーベルの活躍で広く知られるようになった。1990年代は、ヒップホップの要素は他のジャンルの音楽、例えばニューソウルと合体し、多くのスターがコラボレートされた。

1998年のビッグ・パンの出現はシーンの一つのエポックだった。2000年に肥満で死ぬ前に、ビッグ・パンは「ギミック」やマーケティングの仕掛けなしで、スキルのみで大きな注目を集めた。その年、DMXがデビュー作「It's Dark and Hell Is Hot」をリリース。パフ・ダディやジェイ-Zのような、ライフスタイル志向のラップでヒットした。

1999年、ドクター・ドレーは、シングル「Forgot About Dre」でエミネムをフィーチャーしてチャートの上位に登った。続いて、エミネムのデビュー作、「The Slim Shady LP」が出ると、多くの郊外在住の白人の若年層が彼と同調し、100万枚を売り上げた。続くアルバムも大ヒットし、マイノリティに支配されていたシーンには白人のファンが入ってきた。エミネムはポップカルチャーのアイコンとなり、2002年にアカデミー賞を受賞する。

2004年カニエ・ウェストのアルバム「The College Dropout」は、ツイスタコモンといった長年のアーティストと共にシカゴのシーンを改めて注目させた。2005年ザ・ゲームがデビューすると、再び西海岸、特にベイエリアにスポットライトが当てられた。

サザン・ラップの台頭[編集]

1990年代後半までには、アトランタはヒップホップの主要都市になり今日まで続いている。アウトキャスト、グッディ・モブ他アトランタを拠点にしたラッパーは商業的に成功し、ニューオーリンズのラッパーでレーベルオーナーのマスター・Pは、アーティスト性よりも商業的なアピールにより焦点をしぼった「バウンス」サウンドで人気を得た。

マスター・P率いるノー・リミットレーベルはミスティカル、シルク・ザ・ショッカーを売り出し、今や西海岸の大物。スープ・ドッグの本拠地となった。ホット・ボーイズを擁するキャッシュ・マネーレーベルと競った。この争いに加わったのは、トリック・ダディを擁するマイミのスリップン・スライドレーベルであった。これらのレーベルはダーティ・サウスと名付けられたひとつのブームとなりこの10年で急成長した。CDのパッケージはフォトショップで激しく加工され、ライナーノーツは通常すべて関連商品の広告というスタイルだった。

アトランタ以外でも、リル・ジョン&ザ・イーストサイド・ボーイズ8ボール&MJGヤングブラッズスリー・6・マフィア、そして彼らに続く、数えきれないほどの新しいスターが次々と輩出された。

参考[編集]

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