「國粹会」の版間の差分

提供: Yourpedia
移動: 案内検索
(新しいページ: '五代目'''國粹会'''(こくすいかい)は、東京都台東区千束に本拠を置く日本博徒暴力団で、指定暴力団・...')
 
(是枝蔵プレミアム (トーク) による版 398138 を取り消し スパム)
 
(他の1人の利用者による、間の1版が非表示)
(相違点なし)

2022年5月11日 (水) 20:37時点における最新版

五代目國粹会(こくすいかい)は、東京都台東区千束に本拠を置く日本博徒暴力団で、指定暴力団・六代目山口組の2次団体。

歴史[編集]

大日本国粋会[編集]

大正8年(1919年)11月、河合徳三郎梅津勘兵衛倉持直吉青山広吉篠信太郎西村伊三郎中安信三郎が中心となり、原敬内閣内務大臣(略称は内相)・床次竹二郎政友会)を世話役に、右翼頭山満を顧問に迎えて、結成された。大日本国粋会は、土建業者を含む博徒の全国的な右翼団体だった。超党派的純国家主義思想団体として、また、伝統の侠客道を根本信条として行動することを原則とした。創立当時、総裁は伯爵大木遠吉、会長は野村常右衛門、理事長は中安信三郎が務め、会員数60万と称した。

大正10年(1921年)1月[1]、河合徳三郎は、大日本国粋会を脱会し、民政党の後ろ盾のもとに、大和民労会を結成した。大和民労会の結成式は、浅草伝法院で行われ、約5000人が集まった。大和民労会の中心メンバーは、土建業系博徒の関根賢(後の関根組組長)、高橋組(後の指定暴力団住吉会住吉一家浅草高橋組高橋金次郎組長、城迫正一(後の小千鳥組組長)だった。それぞれが、浅草吉原向島下谷を地盤としていた。

大正11年(1922年)12月30日、大日本国粋会の田甫一家(後の指定暴力団六代目山口組國粹会田甫一家)の青沼辰三郎(後の田甫一家五代目)は、浅草区千束町で、年忘れの賭場を開帳した。大和民労会の高橋組の木村は、青沼辰三郎の賭場に乗り込み、青沼を罵倒した。青沼辰三郎たちは、木村を賭場の外に連れ出し、暴行を加えた。これを切っ掛けに大和民労会と大日本国粋会の抗争事件が勃発した。
詳細は 大和民労会と大日本国粋会の抗争事件 を参照

大正14年(1925年)3月、大和民労会と大日本国粋会は、抗争事件を起こし、両者合わせて160人が検挙された。

昭和2年1927年10月5日、総本部を東京市麹町区(現、千代田区)下二番町に移した。

昭和4年(1929年)、鈴木喜三郎が総裁となり、野村会長の没後は高橋光威が会長に推されたが、中安理事長が会長となった。関東大震災時には総本部を京都に移し、関東本部と対立する内紛となった。


日本国粋会初代[編集]

昭和33年(1958年)7月3日、生井一家森田政治総長、落合一家高橋岩太郎総長らが結成した。同日、品川プリンスホテルで、生井一家、幸平一家、田甫一家、小金井一家佃政一家、落合一家、信州斉藤一家金町一家伊勢紙谷一家義人党佐郷屋嘉昭松本良勝辻宣夫防衛庁政務次官ら400余名が出席し、「日本国粋会創立記念式典」が行われた。

詳細は 森田政治 を参照

日本国粋会二代目[編集]

1960年代に前川一家・荻島峯五郎(全愛会議の重鎮)らを中心に連合体として日本国粋会を再結成した。
詳細は 山田政雄 を参照

日本国粋会三代目[編集]

詳細は 木村清吉 を参照

日本国粋会四代目[編集]

平成3年(1991年) 金町一家七代目総長・工藤和義が四代目会長に就任したのに伴い、日本国粋会から國粹会に改称した。
詳細は 工藤和義 を参照

平成17年(2005年)9月 関東二十日会を脱退。工藤会長は六代目山口組最高顧問となった。

國粹会五代目[編集]

平成19年(2007年)4月19日、長野県諏訪市信州斉藤一家本部事務所で、信州斎藤一家・藤井英治総長の五代目国粋会の継承式が行われた。

詳細は 藤井英治 を参照

歴代会長[編集]

五代目國粹会[編集]


落合一家[編集]

落合一家は、國粹会の下部団体で、指定暴力団・六代目山口組の3次団体。東京都渋谷区に本拠を置く博徒暴力団

落合一家の略歴[編集]

初代落合一家[編集]

落合円次郎(通称は広尾の円次)が家名を立てた[3]。縄張りは、渋谷を中心に、目黒世田谷麻布赤坂だった[3]
詳細は 落合円次郎 を参照

六代目落合一家[編集]

昭和26年(1951年)、高橋岩太郎が六代目落合一家を継承した[4]
詳細は 高橋岩太郎 を参照

落合一家の歴代総長[3][編集]

金町一家[編集]

金町一家は、五代目國粹会の下部団体で、指定暴力団・六代目山口組の3次団体。

古河生井一家[編集]

古河生井一家は、五代目國粹会の下部団体で、指定暴力団・六代目山口組の3次団体。

信州斉藤一家[編集]

七代目信州斉藤一家は、五代目國粹会の下部団体で、指定暴力団・六代目山口組の3次団体。長野県諏訪市に本拠を置く日本博徒暴力団[5]

信州斉藤一家の略歴[編集]

六代目信州斎藤一家[編集]

平成2年(1990年)11月、藤井英治が信州斎藤一家六代目総長になった。取持人は、日本国粋会本部長・工藤和義(後の四代目國粹会会長)だった[5]
詳細は 藤井英治 を参照

信州斉藤一家の歴代総長[編集]

  • 六代目 - 藤井英治(國粹会副会長。後に五代目國粹会会長、六代目山口組若中)[6]

寺谷一家[編集]

寺谷一家は、五代目國粹会の下部団体で、指定暴力団・六代目山口組の3次団体。

生井一家[編集]

生井一家は、五代目國粹会の下部団体で、指定暴力団・六代目山口組の3次団体。

前川一家[編集]

前川一家は、五代目國粹会の下部団体で、指定暴力団・六代目山口組の3次団体。

吉田川一家[編集]

吉田川一家は、五代目國粹会の下部団体で、指定暴力団・六代目山口組の3次団体。

田甫一家[編集]

七代目田甫一家(たんぼいっか)は、五代目國粹会の下部団体で、指定暴力団・六代目山口組の3次団体。東京都台東区浅草に本拠を置く日本博徒暴力団

田甫一家の略歴[編集]

大正11年(1922年)12月30日、大日本国粋会の田甫一家(後の指定暴力団六代目山口組國粹会田甫一家)の青沼辰三郎(後の田甫一家五代目)は、浅草区千束町で、年忘れの賭場を開帳した。大和民労会の高橋組の木村は、青沼辰三郎の賭場に乗り込み、青沼を罵倒した。青沼辰三郎たちは、木村を賭場の外に連れ出し、暴行を加えた。これを切っ掛けに大和民労会と大日本国粋会の抗争事件が勃発した。
詳細は 大和民労会と大日本国粋会の抗争事件 を参照

田甫一家の歴代総長[編集]

脚注[編集]

  1. 出典は、山平重樹『義侠ヤクザ伝 藤田卯一郎』幻冬舎<幻冬舎アウトロー文庫>、2003年、ISBN 4-344-40476-9のP.50
  2. 出典は、『六代目山口組 完全データBOOK』メディアックス、2008年、ISBN 978-4-86201-328-6のP.10
  3. 3.0 3.1 3.2 山平2004、p30
  4. 山平2004、p159
  5. 5.0 5.1 出典は、『六代目山口組 完全データBOOK』メディアックス、2008年、ISBN 978-4-86201-328-6のP.84
  6. 出典は、『六代目山口組 完全データBOOK』メディアックス、2008年、ISBN 978-4-86201-328-6のP.83~P.84

関連項目[編集]

参考文献[編集]