大久保利通

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<!-- {{政治家 |各国語表記 = |画像 = Toshimichi Okubo 4.jpg |画像説明 = 大久保利通 |国略称 = {{JPN}} |生年月日 = [[1830年]][[9月26日]] |出生地 = [[薩摩国]][[鹿児島]][[城下町|城下]] |没年月日 = {{死亡年月日と没年齢|1830|9|26|1878|5|14}} |死没地 = [[東京府]][[麹町区]] |称号・勲章 =[[従一位]]、[[勲一等旭日大綬章]] |配偶者 = 大久保満寿子 |国旗 = 日本 |職名 = 第3代[[大蔵卿]] |就任日 = [[1871年]][[8月13日]] |退任日 = [[1873年]][[10月12日]] |退任理由 = |国旗2 = 日本 |職名2 = 初代[[内務卿]] |就任日2 = [[1873年]][[11月29日]] |退任日2 = [[1874年]][[2月14日]] |退任理由2 = |国旗3 = 日本 |職名3 = 第3代[[内務卿]] |就任日3 = 1874年[[4月27日]] |退任日3 = 1874年[[8月12日]] |退任理由3 = |国旗4 = 日本 |職名4 = 第5代[[内務卿]] |就任日4 = [[1874年]][[11月28日]] |退任日4 = [[1878年]][[5月14日]] |退任理由4 = 死去のため }} --> [[画像:Toshimichi Okubo.jpg|thumb|200px|志士時代の大久保利通]] [[画像:Toshimichi Okubo 3.jpg|thumb|200px|[[サンフランシスコ]]にて撮影]] [[画像:Okubo-Toshimichi Kioi-no-hen.JPG|thumb|200px|遭難の地に立つ石碑]] [[画像:Ohkubo Toshimichi statue.jpg|thumb|200px|銅像(鹿児島市)]] '''大久保 利通'''(おおくぼ としみち、[[文政]]13年[[8月10日 (旧暦)|8月10日]]([[1830年]][[9月26日]]) - [[明治]]11年([[1878年]])[[5月14日]])は、[[日本]]の[[武士]]([[薩摩藩]]士)、[[政治家]]。[[位階]][[勲等]]は[[従一位]][[勲一等]]。 [[明治維新|維新]]の[[元勲]]。[[西郷隆盛]]、[[木戸孝允]]と並んで「'''[[維新の三傑]]'''」と称される。 == 生涯 == === 出生・幼少期 === 文政13年8月10日(1830年9月26日)、[[薩摩国]][[鹿児島城]]下高麗町(現・[[鹿児島県]][[鹿児島市]]高麗町)に、[[琉球]]館附役の[[薩摩藩]]士・[[大久保利世]]と[[皆吉鳳徳]]の次女・福の長男として生まれる([[幼名]]は正袈裟:しょうけさ)。大久保家の[[家格]]は御小姓与と呼ばれる身分である下級[[藩士]]であった。本姓は[[藤原氏]]を称するが明確ではない。幼少期に加治屋町(下加治屋町方限)に移住する。親友の[[西郷隆盛]]や[[税所篤]]、[[吉井友実]]、[[海江田信義]]らと共に学問を学ぶ。 15歳の時[[元服]]し、[[仮名 (通称)|通称]]を正助、[[諱]]は利済(としさだ)と名乗るが、後に改名する。 === 幕末 === [[弘化]]3年([[1846年]])から藩の記録所書役助として出仕する。[[嘉永]]3年([[1850年]])の[[お由羅騒動]](嘉永朋党事件)では連座して罷免され謹慎処分となるが、[[島津斉彬]]が藩主となると、[[嘉永]]6年([[1853年]])に藩記録所御蔵役として復職する。[[安政]]4年([[1857年]])には徒目付になる。[[精忠組]]の領袖として活動し、[[安政]]5年([[1858年]])の斉彬の死後は、失脚した西郷に代わり新[[藩主]]・[[島津忠義|島津茂久]]の実父・[[島津久光|忠教]](久光)に税所篤の助力で接近する。篤の兄・[[吉祥院乗願]]が久光の囲碁相手であったことから、乗願経由で手紙を渡したのが始まりといわれる。[[万延]]元年([[1860年]])3月11日に久光と初めて面会する。[[文久]]元年([[1861年]])に御小納戸役に抜擢、家格も一代新番となる<ref>御小納戸役は6人扶持以上の職であるので、小姓与格が就任すると、一代小番になれる。なお、この職についた御小姓与クラスの人物に大山巌の玄祖父である[[大山綱栄]]や[[調所広郷]]がいる。</ref>。文久元年[[12月15日 (旧暦)|12月15日]]([[1862年]][[1月14日]])から文久2年(1862年)3月上旬までの間に久光から'''一蔵'''の名を賜り改名する。[[文久]]2年([[1862年]])に御小納戸頭取に昇進となる。この昇進により、[[小松清廉]]、[[中山中左衛門]]、[[伊地知貞馨]]と並んで久光側近となる。[[文久]]3年([[1863年]])には、御側役(御小納戸頭取兼任)に昇進する<ref>市来四郎の日記に、「速なる昇進にて、人皆驚怖いたし物議甚しく候」と書かれるほどの異数の大抜擢だったという。</ref>。 [[慶応]]元年([[1865年]])、'''利通'''と改名する。 文久2年には、久光を擁立して京都の政局に関わり、公家の[[岩倉具視]]らと共に[[公武合体]]路線を指向して、[[徳川慶喜|一橋慶喜]]の将軍後見職、福井藩主[[松平慶永]]の[[政事総裁職]]就任などを進めた。西郷や小松と共に政治の中枢として活動する。慶応2年([[1866年]])には、第二次[[長州征伐]]に反対し、薩摩藩の出兵拒否を行っている。慶応3年([[1867年]])に、雄藩会議の開催を小松や西郷と計画し、[[四侯会議]]を開催させる。しかし四侯会議は慶喜によって分解させられたため、今までの公武合体路線を変えて、倒幕路線を指向することになる。[[公議政体論|公議政体派]]の[[土佐藩]]との間で[[薩土盟約]]を結ぶも、思惑の違いから短期間で破棄。その土佐藩の建白により江戸幕府将軍・徳川慶喜が[[大政奉還]]を行うと、岩倉ら倒幕派公家と共に、[[王政復古 (日本)|王政復古]]の[[クーデター]]を計画して実行する。王政復古の後、[[参与]]に任命され、[[小御所会議]]にて慶喜の辞官納地を主張した。 === 明治維新後 === 慶応4年([[1868年]])1月23日に、太政官にて[[大阪]][[遷都]]論を主張する。明治2年[[7月22日 (旧暦)|7月22日]]([[1869年]][[8月29日]])に[[参議]]に就任し、[[版籍奉還]]、[[廃藩置県]]などの明治政府の中央集権体制確立を行う。明治4年([[1871年]])には[[大蔵卿]]に就任し、[[岩倉使節団]]の副使として外遊する。外遊中に[[留守政府]]で問題になっていた朝鮮出兵を巡る[[征韓論]]論争では、西郷隆盛や[[板垣退助]]ら征韓派と対立し、[[明治六年政変]]にて失脚させた。 === 初代内務卿就任~暗殺 === 明治6年([[1873年]])に[[内務省 (日本)|内務省]]を設置し、自ら初代内務卿として実権を握ると、[[学制]]や[[地租改正]]、[[徴兵令]]などを引継いで実施した。そして、「富国」をスローガンとして[[殖産興業]]政策を推進した。明治7年([[1874年]])2月に、[[佐賀の乱]]が起こった際には、直ちに自ら[[鎮台]]兵を率いて遠征、瓦解させている。また[[台湾出兵]]が行われると、[[9月14日]]に戦後処理のため、全権弁理大使として[[清]]に渡った。交渉の末に、[[10月31日]]、清が台湾出兵を義挙と認め、50万両の償金を支払うことを定めた日清両国間互換条款・互換憑単に調印する。 また、大久保は[[ドイツ]](プロイセン)を目標とした国家を目指していたといわれるが、実際は[[イギリス]]を目標とした[[立憲君主制]]の国家を構想していたという。明治6年頃から明治11年の大久保存命中まで、大久保を中心とした政権であったため、一般に「大久保政権」と言われている。当時、大久保への権力の集中は「有司専制」として批判された。また、現在に至るまでの日本の[[官僚]]機構([[霞ヶ関]]官界)の基礎は、内務省を設置した大久保によって築かれたとも言われている。 明治10年([[1877年]])には、[[西南戦争]]で京都にて政府軍を指揮した。また自ら総裁となり、[[上野公園]]で[[8月21日]]から[[11月30日]]まで、第1回内国勧業[[博覧会]]を開催している。その後、[[侍補]]からの要請に乗る形で自らが[[宮内卿]]に就任することで明治政府と天皇の一体化を行う構想を抱いていた。しかし、明治11年([[1878年]])5月14日、[[石川県]][[士族]][[島田一郎]]らにより[[紀尾井坂]]([[東京都]][[千代田区]][[紀尾井町]])にて暗殺された([[紀尾井坂の変]])(享年49〈数え年〉、満47歳没)。墓所は東京都の[[港区 (東京都)|港区]]の[[青山霊園]]にある。 == 逸話 == [[趣味]]は[[囲碁]]。島津久光に接近するために碁を学んだとの話も伝えられるが誤りであり、[[嘉永]]元年([[1848年]])の日記に碁を三番打って負けたとの記述がある。大変な[[ヘビースモーカー]]で、濃厚な指宿煙草(日本で初めて栽培されたたばこ)を愛用しており、子供達が朝晩[[パイプ (タバコ)|パイプ]]を掃除しなければすぐに目詰まりするほどだった(また、朝用のパイプと夜用のパイプを分けて使っていた)。[[茶]]は[[京都]][[宇治市|宇治]]の[[玉露]]を濃く淹れたものを好んだ。[[漬物]]も好きで、何種類か並んでいないと機嫌が悪かったという。 明治6年に、[[五代友厚]]に[[浜寺公園]]へ案内された大久保は、[[堺県|堺]][[県令]]税所篤が、園内の松を伐採して住宅地として開発しようとするのを知り、「音に聞く 高師の浜のはま松も 世のあだ波は のがれざりけり」と反対する歌を詠んだ<ref>[[祐子内親王家紀伊]]、[[小倉百人一首]]「音に聞く 高師の浜の あだ波は かけじや袖の 濡れもこそすれ」の[[本歌取り]]</ref>。この歌を知った税所は、開発計画を撤回した。なお、浜寺公園の入り口付近にこの時に詠んだ歌が、「惜松碑(せきしょうひ)」として顕彰されている。 明治8年から1年かけて、[[麹町]]三年町(旧[[丹羽氏|丹羽左京大夫]]邸及び旧[[佐野氏|佐野日向守]]邸跡)に白い木造洋館を建てた(建築費用は[[恩賜]]金と盟友税所篤からの借金で賄ったとされる。後にこの邸は[[ベルギー]][[公使館]]となった)。当時は個人の家としては珍しい洋館であったが、金をかけたものではなかった。また、金銭には潔白で私財をなすことをせず、逆に予算のつかないが必要な[[公共事業]]に私財を投じ、国の借金を個人で埋めるような有様だったため、死後は8,000円もの借金が残った。ただし残った借財の返済を遺族に求める商人はいなかった。政府は協議の結果、大久保が生前に鹿児島県庁に学校費として寄付した8,000円を回収し、さらに8,000円の募金を集めてこの1万6,000円で遺族を養うことにした。 寡黙であり、他を圧倒する威厳を持ち、かつ冷静な理論家でもあったため、面と向かって大久保に意見できる人間は少なかったと言う。[[桐野利秋]]も、大久保に対してまともに話ができなかったので、大酒を飲んで酔っ払った上で意見しようとしたが、大久保に一瞥されただけでその気迫に呑まれすぐに引き下がったといわれる。また、若い頃から勇猛で鳴らした[[山本権兵衛]]さえも、大久保の前ではほとんど意見できなかったという。 大久保が内務省に登庁しその靴音が廊下に響くと職員たちは私語を止め、それまでざわついていた庁舎内が水を打ったように静まり返ったと[[千坂高雅]]が語っている。 大久保の部下だった[[河瀬秀治]]は、大久保の没後の内務省では、[[伊藤博文]]内務卿の部屋で[[西郷従道]]や[[中井弘]]が盛んに夕べの話をしたり、仲居が出入りするようになるなど、すべてが奢侈に流れ堕落したと嘆いている。 家庭内では子煩悩で優しい父親だったという。出勤前のわずか10分か15分の間を唯一の娘である芳子を抱き上げて慈しんだ。また大久保が馬車で自宅に帰ってくると、三男の[[大久保利武]]ら子ども達が争って、玄関に出迎え靴を脱がせようとして、勢いあまって後ろに転がるのを見て笑って喜んでいた。平生は公務が忙しく、家族と夕食を摂ることもままならなかったが、土曜日は自らの妹たちをも呼んで家族と夕食を摂るようにしていた。利通はこの土曜日の家族との夕食を無上の楽しみにしていたという。 青いガラス製の洗面器具を使い、家庭内においても洋間に滞在しながら洋服を着用し、当時としては非常に洋風な生活をしていた。また頭髪を[[ポマード]]でセットしていた。また、写真嫌いだった[[西郷隆盛|西郷]]とは対照的に写真が好きだったという。朝食には[[珈琲]]と[[ブランディ]]を少し垂らした[[オートミール]]を好んだ。 鹿児島が暴発したときには、伊藤博文に対して「朝廷不幸の幸と、ひそかに心中には笑いを生じ候ぐらいにこれあり候」と鹿児島の暴徒を一掃できるとし、また西郷については、これでは私学校党に同意せず「無名の軽挙」をやらかさないだろうと書き送っている(明治10年2月7日付書簡)。しかし西南戦争前に西郷が参加していることが分かると、西郷と会談したいと鹿児島への派遣を希望したが、大久保が殺されることを危惧した伊藤博文らに朝議で反対されたため、希望は叶わなかった。 西郷死亡の報せを聞くと号泣し、時々[[鴨居]]に頭をぶつけながらも家の中をグルグル歩き回っていた(この際、「おはんの死と共に、新しか日本がうまれる。強か日本が……」と言ったようだ<ref>中西進監修『実はこの人こんな人』 四季社、2002年4月10日、ISBN 4-88405-126-2 C1023</ref>)。西南戦争終了後に「自分ほど西郷を知っている者はいない」と言って、西郷の伝記の執筆を[[重野安繹]]に頼んでいたりしていた。また暗殺された時に、生前の西郷から送られた手紙を持っていたと[[高島鞆之助]]と語っている。 暗殺される日の朝、福島県令[[山吉盛典]]に対し、「ようやく戦乱も収まって平和になった。よって維新の精神を貫徹することにするが、それには30年の時期が要る。それを仮に三分割すると、明治元年から10年までの第一期は戦乱が多く創業の時期であった。明治11年から20年までの第二期は内治を整え、民産を興す時期で、私はこの時まで内務の職に尽くしたい。明治21年から30年までの第三期は後進の賢者に譲り、発展を待つ時期だ。」と将来の構想を語ったという(『済世遺言』)。 大久保利通を[[水神]]として祀る「大久保神社」が、[[福島県]][[郡山市]]にある。 *[[身長]]:178cm、[[体重]]:65kg。[[ABO式血液型|血液型]]はO型。 *[[雅号]]:甲東 *[[座右の銘]]:「為政清明」、「堅忍不抜」 *尊敬する人物:[[徳川家康]] == 家族・子孫 == 安政4年([[1857年]])に薩摩藩士早崎七郎右衛門の次女・満寿子と結婚。満寿子との間には、長男[[大久保利和]]・次男[[牧野伸顕]]・三男大久保利武・五男[[石原雄熊]]・長女芳子が生まれた。芳子は後の[[外務大臣 (日本)|外務大臣]][[伊集院彦吉]]に嫁いだ。大久保には妻の外におゆう([[杉浦勇]]、[[京都]][[祇園]][[一力亭]]の[[芸妓]])という[[妾|愛妾]]が居り、おゆうとの間に四男[[大久保利夫]]・六男[[大久保駿熊]]・七男[[大久保七熊]]・八男[[大久保利賢]]をもうけた。 孫の[[大久保利謙]]は日本近代史家、国立国会図書館憲政資料室の成立に寄与した。もう一人の孫[[大久保利春]]は[[丸紅]]専務で、[[ロッキード事件]]に際しては[[賄賂|贈賄側]]の一人として[[逮捕]]・[[起訴]]され有罪[[判決]]を受けた。「じいさんにあわせる顔がない」が口癖だったという。 曾孫に[[吉田健一 (英文学者)|吉田健一]](作家)、[[大久保利晃]](放射線影響研究所理事長、前産業医科大学長)、玄孫に[[寛仁親王妃信子]]、[[牧野力]]([[通商産業省|通産]][[事務次官]])、[[麻生太郎]](第92代[[内閣総理大臣]])、[[武見敬三]](元[[参議院議員]])がいる。 == 系譜 == ; [[大久保氏]] : 明確ではないが[[藤原氏]]末流を称している。[[家紋]]は三つ藤巴。[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]末に京都から薩摩に移るというが、系図は[[貞享]]年間に市来郷川上に中宿(城下に籍を残したまま他郷へ移住すること)した仲兵衛より始まる。 <pre> 仲兵衛━勘之丞━正左衛門━正左衛門━利辰━利政━利敬┳利建=利世━利通━┳利和==利武┳利謙━┳利泰━洋子                           ┣利貞       ┣伸顕━伸通 ┣利正 ┗成子                           ┗利世       ┣利武    ┗通忠                                     ┣利夫                                     ┣雄熊                                     ┣駿熊                                     ┣七熊                                     ┣芳子                                     ┗利賢┳利春                                        ┣利秀                                        ┗利康 </pre> == 官位及び栄典の履歴 == *明治元年[[閏月|閏]][[4月21日 (旧暦)|4月21日]]([[1868年]][[6月11日]]):[[従四位]](辞退) *明治2年[[6月2日 (旧暦)|6月2日]](1869年[[7月10日]]):[[従三位]]、[[永世禄|永世]][[賞典禄]]1,800石 *明治10年(1877年)[[11月2日]]:[[勲一等旭日大綬章]] *明治11年(1878年)[[5月15日]]:[[贈位|贈]][[正二位]][[右大臣]] *明治17年([[1884年]])[[7月7日]]:継嗣利和が[[侯爵]]に叙爵される。 *明治34年([[1901年]])[[5月22日]]:贈[[従一位]] == 大久保利通が登場する作品 == ; [[小説]] * [[海音寺潮五郎]] **『西郷と大久保』 **『西郷と大久保と久光』 * [[司馬遼太郎]] ** 『[[翔ぶが如く]]』 ** 『歳月』 * [[徳富蘇峰]] ** 『大久保甲東先生』 ; 史論 *[[池辺三山]] [[滝田樗陰]]編 **『明治維新三大政治家 大久保・岩倉・伊藤論』 ;[[漫画]] * [[武田鉄矢]]・[[小山ゆう]]『[[お〜い!竜馬]]』 - かなり陰湿な性格の持ち主として描かれており、さらには[[肥溜め]]に落ちるなど貶めるような描写も見られる。 * [[みなもと太郎]]『[[風雲児たち]]』 * [[和月伸宏]]『[[るろうに剣心 -明治剣客浪漫譚-]]』- 上記の『お〜い!竜馬』とは正反対に、日本の将来を憂えた立派な政治家として描写される。物語の都合上、史実の死因は表向きとされ、本作では別の人物に暗殺された事となっている。 ; 映画 * [[竜馬暗殺]]([[1974年]] 役者:[[田村亮 (俳優)|田村亮]]) * [[徳川一族の崩壊]]([[1980年]] 役者:[[梅宮辰夫]]) * [[幕末純情伝 (映画)|幕末純情伝]]([[1991年]] 役者:[[石丸謙二郎]]) * [[壬生義士伝#映画|壬生義士伝]]([[2003年]]・[[松竹]] 役者:[[津田寛治]]) ; ドラマ * [[竜馬がゆく (NHK大河ドラマ)|竜馬がゆく]]([[1968年]]・[[NHK大河ドラマ]] 役者:[[土屋嘉男]]) * [[勝海舟 (NHK大河ドラマ)|勝海舟]]([[1974年]]・NHK大河ドラマ 役者:[[西沢利明]]) * [[明治の群像 海に火輪を]]([[1976年]]・NHK 役者:[[石坂浩二]]) * [[花神 (NHK大河ドラマ)|花神]]([[1977年]]・NHK大河ドラマ 役者:[[高橋長英]]) * [[獅子の時代]]([[1980年]]・NHK大河ドラマ 役者:[[鶴田浩二]]) * [[田原坂 (テレビドラマ)|田原坂]]([[1987年]]・[[日本テレビ放送網|日本テレビ]][[年末時代劇スペシャル]] 役者:[[近藤正臣]]) * [[翔ぶが如く (NHK大河ドラマ)|翔ぶが如く]]([[1990年]]・NHK大河ドラマ 役者:[[鹿賀丈史]]) * [[徳川慶喜 (NHK大河ドラマ)|徳川慶喜]]([[1998年]]・NHK大河ドラマ 役者:[[池田成志]]) * [[竜馬がゆく#2004年版|竜馬がゆく]]([[2004年]]・[[テレビ東京]][[新春ワイド時代劇]] 役者:[[斎藤歩]]) * [[新選組!]]([[2004年]]・NHK大河ドラマ 役者:[[保村大和]]) * [[白虎隊_(テレビ朝日系テレビドラマ)|白虎隊]]([[2007年]]・[[テレビ朝日]] 役者:[[井田國彦]]) * [[篤姫 (NHK大河ドラマ)|篤姫]]([[2008年]]・NHK大河ドラマ 役者:[[原田泰造]]) ====ゲーム==== 桃太郎電鉄シリーズ。(KONAMI) ==脚注== {{脚注ヘルプ}} {{reflist}} == 関連項目 == *[[日本史の人物一覧]] *[[幕末の人物一覧]] *[[明治の人物一覧]] *[[第二次世界大戦前の日本の政治家一覧]] *[[鹿児島県出身の人物一覧]] *[[暗殺された人物の一覧]] *[[浜寺公園]] *[[清水谷公園]] == 参考文献 == *『大久保利通日記』全2冊 本史籍協会叢書、1927年。復刻北泉社、1997年。 *『大久保利通文書』全10冊 本史籍協会叢書、1927〜29年。[[東京大学出版会]]、1983年に復刻。 *『大久保利通関係文書』全5冊 立教大学文学部史学科日本史研究室編 吉川弘文館、1965年、復刻[[マツノ書店]]、2005-2008年。 *[[勝田孫弥]] 『大久保利通伝(上中下)』 同文館、1910-1911年、1921年。 *勝田孫弥 『甲東逸話』 [[冨山房]]、1928年。 *[[清沢洌]] 『外政家としての大久保利通』[[中公文庫]]、1993年、初版[[中央公論社]]、1942年。 *[[佐々木克]]監修 『大久保利通』 [[講談社学術文庫]]、2004年。※関係者による大久保の実像を伝える証言集。 *[[牧野伸顕]] 『回顧録』 新版は[[中公文庫]]上下、1978年。 ※牧野は大久保の次男。  *[[毛利敏彦]] 『大久保利通』 <維新前夜の群像5> [[中公新書]]、1974年。 *勝田政治 『<政事家>大久保利通 近代日本の設計者』[[講談社]]選書メチエ、2003年。 *佐々木克 『大久保利通と明治維新』 歴史文化ライブラリー・[[吉川弘文館]]、1998年。 *佐々木克 『志士と官僚 明治を「創業」した人びと』 講談社学術文庫、2000年。 *[[加来耕三]] 『不敗の宰相 大久保利通』 講談社+α文庫、1994年。 *[[笠原英彦]] 『大久保利通』 <幕末維新の個性3> 吉川弘文館、2005年。 *落合功 『大久保利通 国権の道は経済から』 評伝日本の経済思想・[[日本経済評論社]]、2008年。 == 外部リンク == *[http://www.ndl.go.jp/jp/data/kensei_shiryo/kensei/ookubotoshimichi1.html 国立国会図書館 憲政資料室 大久保利通関係文書(MF:黎明館・国立歴史民俗博物館蔵ほか)] *[http://www.ndl.go.jp/jp/data/kensei_shiryo/kensei/ookubotoshimichi2.html 国立国会図書館 憲政資料室 大久保利通関係文書(所蔵)] *[http://www.ndl.go.jp/jp/data/kensei_shiryo/kensei/ishinnmeikashokann.html 維新名家書簡(MF:個人蔵) | 国立国会図書館] *[http://210.128.252.171/portrait/datas/32.html?c=3 大久保利通 | 近代日本人の肖像] *[http://www4.airnet.ne.jp/soutai/07_douzou/05_o/ookubo_toshimiti.html 大久保利通 銅像] {{DEFAULTSORT:おおくほ としみち}} [[Category:明治の元勲]] [[Category:薩摩国の人物]] [[Category:鹿児島県出身の人物]] [[Category:鹿児島県の歴史]] [[Category:西南戦争の人物]] [[Category:革命家]] [[Category:暗殺された人物]] [[Category:銅像]] [[Category:日本の海事官僚]] [[Category:1830年生]] [[Category:1878年没]]